よく、一流企業や強いスポーツチームには、厳しく指導に当たる方がいらっしゃいます。企業をさらなる成長へと押し上げたい、また強いチームにしたい、
その団体の事を愛しているがゆえにみんなに厳しく接する人です。ま、それが厳しすぎるんですが。愛情を飛び越してしまい、
結果のためならどれだけ厳しくしてもいいのだ!
となってしまっているわけですね。
(部活動などに例えてみましょう。)部員たちは練習をさぼりたがりますが、みんな先生を恐がり、恐怖も手伝ってか、一生懸命練習に打ち込みます。そのぶん良い成績もついてくるかもしれません。部員がもし、「先生の言う通りにやってきてほんとうによかった」と思うなら、憎まれ役の先生も、まあ、報われると言ったところでしょうか。
この競争社会において、憎まれ役の指導者、
厳しさによって人を引っ張る人は時に必要なのかもしれません。ほっとくとだらけてしまう人間には、成長させるためには「厳しい対応」が一番なのかもしれません。
では、この「神の組織」である
エホバの証人には、「憎まれ役」は果たして必要なのでしょうか。
イエスは、誰もが近づきやすい存在でした。コドモも集まりますし、罪人も集まります。
この時点で、部活の鬼コーチや、会社の鬼部長のような存在ではなかったことが伺えます。人がついてくるには、ある程度の厳しさが必要だ、と友人の長老兄弟が言ってましたが、僕は違うと思います。
他のどんな優良企業が、スポーツチームが良い成果を挙げようと、そのやり方が正しい、とエホバの証人は言いませんし、言えないはずです。人間の組織ではない、神の特別な組織だからです。イエスと同じように愛や親切で人を引き付けるのが神の組織であり、代表する長老たちがそれを特に示せなくてはならないはずです。
なるほど、イエスも悪を容認しなかった、両替台をぶちまけたではありませんか、断固とした態度は必要ではないか。
確かにそうです。必要です。しかしそれは
神殿を汚す敵に対してであって、会衆の羊たちに対してではありません。長老たちも会衆を守るために断固とした、時には冷たく見える措置をとる、これは理論的にわかります。
ペテロに「はなれされ!」って言ったじゃないですか。確かに。しかしそれはペテロもすぐに愛を動機としてイエスが言われた事をすぐ察する事ができたのではないでしょうか。間違いにすぐ気づき感謝したのではないでしょうか。普段優しいイエスが、近づきやすいイエスがはっきりと言ったからこそ、ペテロの心に届いたのではないでしょうか。
普段から目を光らせ、会衆を厳しく見張る、悪い事が起きないか常にチェックしている、そんな目は必要なんでしょうか。
さきほど述べた僕の友人の長老は、
誰が来ていて誰が来ていないか、毎回出席簿をつくってチェックしていました。チェックして休みがちな人に近づいて、声をかけたり励ましたりするのが目的なのかもしれません。
でも僕は寂しさを感じました。そうして「管理」することが「愛」なんでしょうか。数字が残る事で会衆から精神的な病が少なくなるのでしょうか。
余談ですが、この組織がだらけないために、監視役、巡回監督や地域監督がいます。常に会衆を回り、目標をを設定し、ねぎらい、成果が上がるようにします。長老たちに対しては助言も時には厳しくありますから、ある意味「憎まれ役」なのかもしれません。
ま、まだ巡回が憎まれ役ならまだわかりますかね。聖書的には微妙ですが。
でも、ほんとうに神を崇拝しているなら、そんな「にくまれてしまう人」はいらないなあ。
なかよくやろうぜ。