エホバの人たちは次のことを信じています。
1 崇拝の対称となるのは唯一まことの神であられるエホバである。
2 イエスキリストはエホバの最初の創造物(被造物)である。
ですよね?こんなことはすでにエホバの証人じゃなくてもウィキ読んで知ってます(てかウィキけっこう詳しい)ですが今週の奉仕会で奇妙な一文が。
では読む前にせいくをおさらいしときましょうかみなさま。
わたしエホバは全き専心を要求する神であ(る)出エジプト20:5
文脈ではいかなる偶像崇拝を禁じています。
「わたしはエホバである。それがわたしの名である。わたしはわたしの栄光をほかの誰にも与えず、わたしの賛美を他の彫像に与えることもしない。イザヤ42:8。
個人的に大好きな神の栄光一人占めの聖句です
ではよおく覚えていてくださいね
わたしたちの王国宣教2007年12月号6ページ8節1文目
「ものみの塔」と「目ざめよ!」は、類例のない雑誌です。エホバを宇宙の主権者として高めています。(使徒4:24)神の王国のよいたよりによって慰めを与え、イエス.キリストへの信仰を鼓舞します。(マタイ24:14。使徒10:43)
はい、そうですみなさん。あれれ?おかしくないですか?そうです、神の王国のよいたよりなんかに
慰められたことねえよ!ちっきしょう!
いっつもいっつも奉仕奉仕集会集会奉仕奉仕集会集会
レクリエーション奉仕奉仕奉仕奉仕集会…
言いやがって!
初期の「慰め」誌ですら慰めてるかどうか疑わしいわっ!!
おっととと
気持ちはわかります。けど僕が言いたいところは違います。その次の一文です。
イエス.キリストへの信仰を鼓舞します。
イエスキリストはエホバの証人にとって被造物です。
ですから崇拝したり信仰を持つなら
被造物を崇拝することになり偶像崇拝になります。ですから出版物では「イエスの購いの犠牲に
信仰を持つ」というなんとも歯がゆい表現が繰り返し用いられてきました。
でもどうでしょうか。参照の使徒10:43にはこうあります。
彼の名に信仰を持つ者は皆、その名によって罪の許しを得る
最近では「来て、わたしの追随者になりなさい」の新しい出版物でもイエスに信仰を働かせることについて述べられていますが
うまくかわしている
という印象を受けます。様々なところでイエスに信仰を働かせないのはキリスト教としておかしい、とバッシングされているからでしょうか、うまくごまかしている文章がたくさんあります。
エホバ以外を崇拝していいんですか?とか聞いたら「兄弟、違いますよ、これは購いに信仰を持つ、という意味なんです」って説明されそうな微妙な表現ばっかりです。
キリストが救い主である事を認めキリストの名に信仰を働かせてはエホバの人的にはまずいのではないでしょうかねえ。
ま、それがクリスチャンとして自然な感じがしますが。