僕は自分の会衆の長老にそして巡回にも「必要で入ってきたクセに目標もろくにない奴」と思われていると思います。
巡回監督の訪問があり
食事をする機会がありました。
兄弟は質問しました。
けっこうなおじいちゃんで永年エホビアンをされてきた兄弟です。
「兄弟、兄弟は外国語の目標はありますか」
「外国語ですか〜?今は予定ないです(だってやめるもん)」
「やってください」
「じゃ兄弟、建設奉仕は楽しまれてますか?」
「いえ、建設はやってないです」
「やってください…!」
どうしてそんな目標を持たせたがるのでしょうか
8 あなた方は,互いに愛し合うことのほかは,だれにも何も負ってはなりません。仲間の人間を愛する者は律法を全うしているのです。9 「あなたは姦淫を犯してはならない,殺人をしてはならない,盗んではならない,貪ってはならない」,そしてほかにどんなおきてがあるにしても,その[法典]は,この言葉,すなわち,「あなたは隣人を自分自身のように愛さねばならない」に要約されるからです。10 愛は自分の隣人に対して悪を行ないません。ですから,愛は律法を全うするものなのです。ローマ13章。
↑王国会館建てないと、外国語で奉仕を目指さないと、愛が足りないのでしょうか、クリスチャンとしてだらだら生活しているということになるのでしょうか?
「良心の危機」にあった言葉かもしれません。(正確には覚えていません)人ひとりができることなんてほんのわずか。せいぜい周りの2、3人に愛を示す事ぐらい。でもキリストはそれを十分としてあまりあるものとして見てくださる…
開拓奉仕をして毎日精神的に疲れていた自分にとって大きな一言でした。これこそ、上記のローマの言葉どおりと感じました。
愛を示すがために、建設…外国…それならまだわかります。でも、最近あまりにも「目に見える」目標を掲げ過ぎではないでしょうか。現物が先行していないでしょうか。
僕はエホバの証人として考えてみても、宣教訓練学校を目指す前に、まず会衆の仲間が集会や伝道に参加したときに「来てよかった」「元気が出た」と言えるような環境つくりが先だと思います。自分も含めてキリストに感謝し毎日気持ちに平安を宿しながら生活する…これこそクリスチャン、といえるのではないでしょうか。それでさらに神がプレゼントしてくれるのなら、とらえていけばよい「賜物」です。
それを崩してまで、長老の助言になんでも「イエス」と答え、集会で良い注解をするために予習し、研究報告を増やすために野外に出る…
これにどうしてローマ13章が当てはまるのでしょうか。今のままでも会衆の人ひとりくらいなら元気になってもらえると思いますし、聖書は好きです。
個人研究も、黙想も、そもそも
さらに神に近づいたり、隣人を思いやるためのものなのに、いつしか特権をとらえるための必要知識を頭に詰め込む手段に成り下がってしまいました。
そんなことしなくても、毎日神に、キリストに感謝して今日も命をもらえたことに感謝すれば、隣人を愛する気持ちが湧いてくると思うんだけどなあ…